旅の感覚

西表島キャンプ旅-1995

沖縄の西表島を中心に三十三日間の旅行にいってきたわけだが、これを周りの人に説明するのに一苦労する。以下床屋での会話である。

「いやー、真っ黒に焼けてきましたね。どこへ行ってきたんですか」

「一月ほど沖縄へ……」

「そうですか、沖縄ですか。一月もいいですね」

この段階で、そう聞いてきた人の頭の中には、万座ビーチホテルあたりの光景が頭に浮かんでいるのである。

だから言ってやる。

「沖縄といっても、台湾に近い辺鄙な島でキャンプしてたんです」

「え、キャンプですか? ずっと? そりゃすごい。でも大自然のなかでのキャンプっていうのも優雅でいいですね」

そう言った、この人の頭の中で思い描いているのは、きれいに整地されたキャンプ場で、水道を使い炊事をし、明るい照明の下でバーベキューをしているような光景である。

だから今度は、そのキャンプの実態を説明してやる。

泊まったのはキャンプ場でもなんでもないただの砂浜。水道トイレ等の設備は一切なし。最寄りの民家は四キロ先。自販機も電話も売店もみんな四キロ以上歩かなくてはいけない。

ここまで言えば、だいたい想像していたキャンプとはちがうんだなと理解してくれる。でもそれだけでは終わらない。

「それじゃあ、沖縄までキャンプをしにいったんですね」

そういって旅の目的を定義付けようとするのだ。

「いや、そうじゃなくて、旅行なんです。キャンプしながら旅行してるんです。宿に泊まる代わりにキャンプしているだけで………いや、でもキャンプ自体も旅行の一貫として楽しんでるわけで……」

と、説明するのが面倒臭くなり、途中で適当に話を切り上げてしまう。仮にすべて説明したとしても百パーセント理解してもらうのは難しいようだ。

僕の概念としては、普段の生活に対して、そうではないもの、つまり非日常、それがすべて旅だと思っている。

たとえ日帰りであっても、非日常的なものを経験しにいくのはすべて旅だ。だから山登りにいっても、河原へキャンプしにいっても、東海道を歩いても、すべて僕にしてみれば旅なのである。

でも普通の人に旅行といってしまうと、いわゆる観光旅行しか思い浮かばないらしい。また彼らにとっては登山といえば登山であるし、キャンプといったらキャンプでしかないのだ。これらがすべて同じ次元であるとは思ってくれない。

それに、旅行に対して持つ意味合いも全然ちがう。たとえば、東海道を京都から東京まで歩きました、こう言ったとする。そのとき相手の反応は、

「へえ、そう。で、そんなことやってなにが楽しいの? 電車に乗ってけばいいじゃん」

どこか違うのである。論点が噛み合わない。さらにひどいのになると、

「ふーん、お金がなかったの?」

となる。そうじゃなくて歩きたかったんだ、そう言ってもなかなか納得してくれない。旅というより、ただの奇行としかみてくれないのだ。

東海道を歩いたこと。それは僕自身なんのためにそうしたのか、それを言葉で表すことができない。それがもどかしくもあるのだが、でも感覚的に分かってくれてもいいんじゃないかという気がしてしまう。

一生懸命説明しようとするのだが、最近はもう諦めかけている。

反対に、普通の人に旅行とはなにかと聞いてみると、たいていは、「さあ、どっかに泊まりにいくことじゃないの?」と、いま流行りの他人事風の返事が返ってくる。せいぜいよくても「気分転換」という答えが多い。

でも、僕としては旅というのはもっと大きな意味を持っている気がしてならない。さっき「旅は非日常である」なんてことを書いたけど、もしかしたら旅こそが本当の日常なのではないかと思うことすらある。

旅が日常の延長にすぎない人にしてみれば、高い交通費払って、ふつうなら宿代払って…、と旅はまったくの浪費にすぎないかもしれない。そんな人からみれば旅する人はただのバカな奴にみえるだろうし、五百キロあるいたなんていったら狂気の沙汰といったところだろうか。

でも、旅の意義を見いだしている人にとっては、そこから得るものはなにものにもかえがたい。

あれこれ問題はあるだろうが、いまの自分がこうしてあるのも旅があってこそである。他人からみれば、「あいつは、日増しにおかしくなっていった」のかもしれないが、自分としては、いい方向に成長したのだと思っている。

旅先での日常はとても密度の濃いものだ。ふだんの生活の何年分にも相当するような気がする。

西表島では、一日中なにもしないでボーとしていることが多かった。それでも得るものは多かった。具体的になにといえるものではないのだが、ただそこにいるだけで、なにか新しいものが見えてくるようだった。普段なら決して考えないようなことでも、そこでは不思議といろいろ思い巡らす。考えるというよりは、むしろ気づくといったほうがいいだろうか。
西表島で出会った旅の意義を見出だしている人たちは、旅のとらえ方をはじめとして、いろいろなものの考え方が根本的にふつうの人と違っていた。

旅人たちの感覚の根底にあることを考えてみると、神経がずぶといこと、そしてなにより大きいのは、みてくれより内面を重視することにある気がする。

あたりまえことを、あたりまえとみなさないのが、その出発点だろうか。

普通のひとはあまり『常識』を疑おうとしない。素直に常識というものさしを信じる。 でも西表であったひとたちは、オリジナルのものさしを持っていた。

ものごとを見て判断する基準からして違うわけだから、感覚が違うのも当然といえる。 一例を出そう。変な響きに聞こえるかもしれないが、汚いことをさほど苦に思わない。そりゃ全身泥だらけになれば、体を洗いたいとは思うが、一日一回シャワーを浴びなくては気が済まないなんてことはない。

都会では、潔癖症だとかいって電車の吊り革につかまれない人がいるらしい。抗菌グッツというのもはやっている。

そりゃ、体を清潔にしておくことの衛生的な意味はわかっているつもりだけど、それ以上に人体のもつ抵抗力の強さもよく知っている。

だから水浴びをすることはあっても、石鹸で体を洗うことは、どちらかというと贅沢な部類に入ることだったようにおもう。

それに体を石鹸で洗ったとしても、どうせ使うのは猪が水浴びしてる川の水なんだから、あんまり意味はなかったかもしれない。

このことを引き合いに出したのは、以前に十二日かけて京都から東京まで歩いたときに、普通の人から一番よく聞かれた質問が、「風呂はどうしてたのか」だったからだ。 銭湯にありつけたのは、たしか二回ほどだったかな? そう答えると、あからさまではないまでも、驚いたような反応を示す。そして、「でも二月なら汗もあまりかかなくて良かったですね」、とくる。

しかし実際はTシャツがびちょびちょになるくらいに汗をかき、靴の中などは十二日間ずっと蒸れっぱなしで、とんでもない状態だったのだ。

そのことをいうと、たいていみんな黙り込んでしまう。

きたない、そう思うのが普通の人の感覚ということなのだろう。

話は戻るが、水浴びについて、おもしろい話がある。

海に入ると潮でベトつく。だから海水浴なんかだったらシャワーで塩を流す。でもキャンプの最中はシャワー(水道)なんてものはないから沢を使っていた。だが、場所によってはそれすらもない。

そんなときはどうするか。さいわいにして僕が泊まるところはどこも水があったのだが、それ以外を経験を持つ女性キャンパーから教えてもらった方法がある。

それはペットボトルを使う。シャワーでは水を大量に使うが、その気になればペットボトルの一・五リットルでも全身を流せるんだと、教えてくれた。石鹸を使ったり、頭も洗う場合は少しきついが、ふだんの汗をかいたときくらいなら一・五リットル程度で十分だそうだ。だから暑い沖縄を歩いていても、ペットボトルを二本持っていれば食事からシャワーからすべて賄える。

シャワー=大量の水、そんなイメージから、水道、川のないところで水浴びをするなんて発想はぼくの中にはなかった。

僕にすれば画期的なアイデアだった。当然、このアイデアは即いただいた。

実際、彼女はそうして気ままなキャンプを続けていた。(さすがに、というか当然というか人目は気になるらしく、どこかの影でこっそりと水浴びしていたらしいが)

とまあ、個人差はあるにしても、旅人の感覚というのはこんな感じなのである。

普通の人にペットボトル差し出して、シャワー替わりといっても、なかなか信じてもらえないだろう。

旅先で出会った人と過ごすひとときは、心地よいものだった。似たような感性の持ち主だから、気を遣わなくていいし、なにより思う存分話ができる。冒頭に書いたような歯がゆい思いをせずにありのままで話せるのだ。

書き進めるうちに『旅人』と『普通の人』を対比するという感じになってしまったが、世間一般の常識に乗っとった感覚を普通と表現してしまうのはどうかと思う。彼らが普通なら旅人たちは普通じゃない=異常ということになってしまう。

でも直観的に、旅先であった人のほうが人間らしい気がする。本当に生きているんだなと思える。僕としてはこっちの方を普通と呼びたい。

少なくとも僕自身は、まともな感性で、まともに生きているものと思っている。