はじめてのヒッチハイク

西表島キャンプ旅-1995

西表島で、はじめてヒッチハイクというものを体験した。

旅の形態としてのヒッチハイクを知らないでもなかったが、どうも時代錯誤なかんじがして、まさか自分がヒッチハイクを経験することになるとは思ってもみなかった。

西表島についた初日、炎天下のアスファルトをトボトボと歩いていると、一台の車がとまってくれた。大きな荷物をかついだ僕をみて、向こうの方から乗っていかないかと声をかけてくれたのだ。

これがヒッチハイクと関わるきっかけとなった。

「ここだったら、手をあげればたいていの車がとまってくれるよ。無視していっちゃうほうが少ないね」

車のドライバーは、そう教えてくれた。

これが勇気につながった。お金がなかったことをいいわけに、以後、積極的にヒッチハイクを試みるようになった。

たしかに西表島はヒッチハイクの成功率は高かった。例の左手の親指を立てるポーズをして断られた(無視された)のは、二台しかなかった。

もっとも自分からアプローチせずとも、車のほうから声をかけてくれるほうが多かったので、二台というのは多いとも少ないとも言い兼ねるのだが。

西表島で見ず知らずの人に車に乗せてもらったのは通算十回。そのうちこちらから手をあげて乗せてもらったのは二回。ダメだったのが二回だから確率は五割。それほど高い結果ではないが、その後の八台はすべてむこうの好意で乗せてくれたわけだから、やはり西表島はヒッチハイク天国といっても間違いはないと思う。

道を歩いていると、わざわざとまって「乗っていくか」といってくれるのだから驚きだ。都会では考えられない。

そんな一台に大型のダンプカーがあった。見晴らしのよい運転台から、今までにない視点でのドライブを楽しんだ。

「こいつを経験しちまうと、いまさら普通の車は乗れねぇよ」

若い運転手のあんちゃんが、そういうのはもっともだと感じた。

西表島でヒッチハイクがうまくいくのは、やはりなにより人がスレていないこと、そして旅行者が多く、マナーも良いこと、暑い日中に歩いて集落から集落を移動しようとするひとがいないこと、などが関係あるのだろう。

広い西表島ではあるが、こうして陸路の移動にはお金を一銭も使わなかった。

定期バスの本数が少ないこともあって、ヒッチハイクは島内の有効な移動手段である。

ただひとつ難点は、人との接触という点。相手の好意で乗せてもらうわけだから、ある程度相手への印象をよくしなければいけないし、なんとか話をして場をもたせなければいけない。

黙って乗ってきて、終始無言というのでは相手にたいして失礼だし、いらぬ誤解を与えてしまう。

旅の恥はかきすて、なんてことばはあっても、向こうはこっちを旅行者のひとりとみているのである。僕ひとりのせいで旅人すべての印象が悪くなったのでは申しわけない。

そんな気負いから、車内ではとにかく明るくおしゃべりな役を演じてしまう。もともと話好きなひとにはなんてことはないのだろうが、これが僕にはつらい。

もちろん地元の人からの貴重な情報とか、おもしろい話などもあるのだが、それでもやはり気が重いものである。

その点、トラックの荷台に乗せてもらうというのは快適だった。なににも気をつかわず、流れる景色を眺めていられる。風が頬をきるのも気持ちがいい。本来ならこれは違法である。のんびりした田舎ならではの経験だろう。

西表島でのヒッチハイクの成功に気をよくして、石垣島でもヒッチハイクを試みた。

しかしさすがは一応の地方都市である。車の数は多いのだが、ちっともとまってくれない。

親指を立てたまま二十台から三十台はやり過ごしただろうか。時間にして四十分。やっと一台のパジェロがとまってくれた。

このパジェロを運転していたおじさんが親切なひとで、「乗せてくれた」のではなく、「送ってくれた」のである。

このときは石垣市街からおよそ二十五キロはなれたキャンプ場に行きたかった。方面こそ同じであっても、そのおじさんの目的地はもっと近いところだったようなのに、「どうせだから」といってわざわざキャンプ場の中まで送ってくれた。

炎天下で四十分間立ち続けて、「やっぱ石垣の人は冷たい」と勝手に思いはじめていたが、このおじさんに拾ってもらって、「石垣も捨てたもんじゃない」とイメージががらりと変わってしまった。現金なものである。

キャンプ場を去るときもヒッチハイクで市街に戻り、やっぱり沖縄の人はいい人だという結論を抱いて、石垣島をあとにしたのであった。