旅のカメラ考

西表島キャンプ旅-1995

旅にはカメラがつきものである。

なぜか旅行というと、ふだんは写真なんかにまったく興味のない人でも、カメラに手がのびる。

だれでも、目で見て感動したものを人にも伝えたいと思うものだ。その点、写真の記録は旅を客観的に伝えるには最適なものといえるだろう。

そうした有用性を認めつつも、僕はどうもカメラにはなじめない。以前は当たり前のごとくカメラを持って旅行に出たのだが、いつしかそれをやめてしまった。

写真を撮るとはどういうことなのか、それがぼくには感覚的につかめないのだ。

シャッターを押せばファインダーで見た像が記録される、それはわかるのだが、だからなんなの? という気がしてしまう。なんとなくシャッターを押して、できた写真をみて、ああ写ってる、とただそれだけなのだ。

それでいて、フィルム代、現像・プリント代、それにカメラを持ちあるくときの盗難やショックへの気配りなどマイナス面だけはおおいに気になってしまう。

なにより、写真なんか残さなくても自分の目で見るだけでいいなとも思う。旅の記念に、というつもりであっても、客観的事実をそっくりそのまま記録するだけの写真は、それ以上のものはなにも含められない。その事実をみて、どう感じたのか、肝心の部分がすっぽり抜けてしまっている。

何百分の一の確率でしか見えないようなよっぽどすごい光景に出食わしたというなら話はべつだけど、そうではない単なる景色なら、見たこと感じたことを自分の言葉で表現した方がよっぽど印象深い記録になるのではないだろうか。

また写真でもうひとつ気になっているのは、ある一場面をカメラにおさめると、それだけで満足してしまうきらいがあるということだ。

写真を通していつでもその場面を見ることができるのだから、と思うのからだろうか。どうも写真を撮ったことで、その場面にひと区切りをつけてしまう。旅先でたくさんのサンプルを採集して、おうちに帰ってからゆっくり堪能しましょう、とでもいっているかのように。
しかし誰もが認めるように、実像と写真とではまったく比べものにならない。

だから、なにより優先するのは、その場で肉眼で見ることなのだ。でもカメラはそれを忘れさせてしまう。

学術記録とかいうの無機質なものではないのなら、やはりそこで感じたものが最優先されたほうがいい。だから自分の中の印象が第一であって、それを伝える言葉があって、その補助として写真がある、そんな形こそが本当の「旅の写真」なのではないか。

僕自身、カメラ好きというわけではないからなのかもしれないが、カメラを持っていると気負いのようなものを感じて息苦しくおもうことがある。

心のなかに、いつも写真をとらなくちゃ、という気があって、同じ景色を見るのでもついカメラアングルでとらえてしまう。自分の目で見るより先にフィルムに焼きつけることを優先するかのようになってしまうのだ。

沖縄へ行く船の中でこんな場面があった。長い船旅のおわりちかく、沖縄の沿岸を航行中に、突然船内アナウンスが入った。

「ただいま本船右舷前方にイルカの群れがいる模様です」

みんなあわててデッキに飛び出した。

しかしいつもカメラのことが頭にある人たちは、カメラ、カメラと探し回って、デッキに出るのが遅れた。彼らが来たときには、もうイルカの姿はなかった。

自由の旅であっても、モノを持つことで不自由になることがある。それを強く感じた。 普段は見ることのできない野生のイルカの姿を、フィルムに焼きつけることはおろか、己の目で見ることすらできなかった人たち。悔しそうな表情が印象的だった。

ときとして旅の一場面で、カメラを持っていれば……と悔やまれることもある。でも、それを持っていることで生じる煩わしさとを天秤にかけると、やはり今の僕には余分なものに思える。

しかし、最後に、今回の旅で出会った人から写真を送ってもらったのはうれしかったことを付け加えておく。

旅先での出会いを、旅先だけで終わらせないための、道具としての写真の価値は絶大だと思う。