英語が苦手だ。得意、不得意という以前に、まったくできない。
中学以来、もう六年以上は勉強していることになっているが、それは形ばかりであって、実際のところなにひとつ理解っていない。
中学の最初にならうBe動詞にしても、それがおぼろながらにつかめたのは高校に入ってからだった。原形がbeで、その活用形がis, am, are などであると知ったのが高校のはじめで、is, am, are が動詞であることを理解したのはもっとあとである。
This is a pen. これはペンです これ=ペン。なんにも動作をしていないではないか、これをどうして動詞というのか。
これでひっかかって以来、英語というのは理論はめちゃくちゃで、おぼえるしかない学問、というイメージが定着し、高校まで学習の進歩はまったくなかった。
高校、そこでの英語の授業はなかなかのものだった。無断欠勤しがちな先生の授業は、教科書の長文の和訳をひたすらしゃべり続けるだけ。そしてテスト前には「愛のメモ」なるプリントが配られ、それには単語がならんでいる。その順番さえ覚えておけばテストで六十五点はとれるという仕組みになっている。
順番さえ、というのがミソで、単語の意味も綴りもわからないでも、それだけの点がとれてしまうのである。
そんな授業が週二時間。それが高校三年間の英語のすべてだった。
そして今、大学。これには英語の試験なしで入学した。だから一応は大学生をやっているが、いままでにまともに英語を勉強したことはないのだ。
ここで初めて今までのツケがまわってくることとなった。
まわりはすべて、普通高校でそれなりに英語をやってきた人たち。それに加えて、受験のためにも一生懸命とやってきたことだろう。
結果として、彼らにとっては当たり前のことでも、僕はなにひとつ知らない、それが現実であった。
当然である。中学のときですら単語をおぼえようと努力したなんて経験はないし、文法なんて、最初から理解できないと思ってたから聞いちゃいなかった。だから、現在完了といわれてもなんだかわからないし、不定詞、未来型もよくわからない。三単現による動詞の活用もおぼろである。
またなにより辞書というものをつかったことがなかった。大学の授業のとき、まわりのみんなが、ボロボロに使い込んだ辞書をめくりめくり、先生の話を聞いているのをみて、あわてて辞書を買いに走ったものである。しかし、使い慣れないせいで、ひとつの語をひくのに五分もかかり、そこでもみんなとの差がひらけていった。
で、この話を学校ですると、みんな信じられないという顔をする。大学まできていながら、一度も辞書を使ったことのないやつなんて信じられない、というのだ。しかし、現にこうやって存在し、そして苦労しているのである。
以上、僕の英語歴をざっと述べたが、そんなわけだから、自分は英語ができるとは夢にも思っていない。実力とすれば中学一年くらいあればいいほうだろう。
あまりいいたくはないが、大学の試験のときに高校一年の妹に文法の基礎を教えてもらっていたのが実情である。まあ、妹はあきれていたが。
日本人なんだから日本語がわかれば日本の社会は生きていける、そんな開き直りから、英語のことはあきらめかけていた。
海外旅行のときとか英語ができないと不便ではないか―そう考えたことは一度ならずもあったが、結局は、「外国へ行かなければ英語は必要ない」、が結論だった。
だから、旅行は好きでも、外国をその対象として考えたことはなかった。まあ、根っからの貧乏旅行ばかりだったということもあって、外国=金がかかる、という図式から、金銭的にも海外へ行けるなどとは思ってもいなかった。
ところが、西表島で出会った人たちの話を聞くうちに、次第に考えがかわってきた。なんだか、自分でも、そこに行けそうな気がしてきたのだ。
ひとりの自由旅行で海外をまわるような人というと、当然英語がバリバリの人だと思ってしまう。しかし実際はそうとは限らないという現実を知ったのが大きかった。
出会った人の大半は、それなりに人生経験もゆたかな人たちばかりだったから、今はそれなりに英語を扱えるようだったが、それとて旅先の必要から必然とおぼえたということだった。
つまり最初はなんにもわからずに飛び出したのだ。中学以来英語がわからず、高校でもいつも赤点ぎりぎりだったなんて人の多いこと。日本でしっかり英語をマスターしてから出かけたなんて人はついぞやお目にかかれなかった。
最初はそれなりに苦労はあるようだが、それとてたいしたものではなく、どうにかなってしまうものらしい。
そんな話をいくつもの具体例をまじえて聴いていると、次第に重いプレッシャーとしてのしかかっていた「英語」が、軽く思えるようになってきた。
それに加えて、格安航空券と海外での物価の実態。また外国ならではの興味ぶかい体験。それらを聴くうちに、いつしか、自分のなかに描いていた海外旅行像がことごとく崩されて、それを毛嫌いする理由がなにもないことに気づいた。
外国に出るのに必要なのは、英語でもお金でもなく、度胸である、誰かがそういっていたのを思い出す。
言葉、そして金銭。それらに拘泥する必要がないとわかったいま、僕にも世界というおおきなフィールドがひらけてきた。
どうも最近、旅行ということに新鮮味が欠ける気がしていた。キャンプなどにしても勝手を知ってしまい、以前にあったような不安感のようなものがなくなり、自由になった反面、大きく感動することも少なくなった。
しかし、いま世界を前にして、初心に返ったような気がしている。端的にいってしまえば、こわい。未知のものに向かっていくことに大きな不安を感じる。でもいままでにない、おおきなやる気で満ちている。これこそ、旅をはじめた当初に抱いた気持ちだと思い出した。
やはり旅にはスリルが必要なのだ。実体の見えない未知の世界に向かうという感覚がなにより楽しい。
今の気持ちをどう表現したらよいだろうか。
真っ暗な洞窟におそるおそる足を踏みいれる。そこ知れぬ深みにビクビクしながらも先へ進む。しかし、その一番奥に到達してしまうと、その魅力は半減してしまう。しかしそんなときに新たな枝洞をみつけ、それこそ無限に近い広がりがあることに気づく。まさに新しい世界がひらけた。
と、いったらわかってもらえるだろうか。
世界へ。そう、文字どおり新しい世界へ旅立つ。